『茂吉再生―生誕一三〇年齋藤茂吉展―』神奈川近代文学館

6月6日(水)。
会場が少し遠方なのであきらめかけていたのですが、「行くならあげる」と知人がチラつかせてくれた招待券に飛びついて、急ぎ出かけました。

○印象的な話ばかりだったけれども、とりわけ身に染みたのは、茂吉の歌との出会いの話だ。(以下引用はパンフレットから)

「はじめて歌を作つて見ようと志した」のは、貸本屋から借りた正岡子規『竹の里歌』を読んだとき、と茂吉自身が語っている。(略)「柿の実のあまきもありぬ柿の実のしぶきもありぬしぶきぞうまき」を読んで「嬉しくて溜まらな」くなり、「人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅殺すわれは」で嬉しさは筆写するにまで高まった。

この出会いは与謝野晶子の発端を思い出させる。「やかましい作法や秘訣のあるらしいのが厭」だった晶子は、あるとき新聞で与謝野鉄幹の「春浅き道灌山の一つ茶屋に餅食ふ書生袴着けたり」を読んで、こんなに「率直に詠んでよいのなら私にも歌が詠め相だ」と作歌に目覚め、二年後に創刊された「明星」に加わる。

茂吉と晶子、後に終生のライバルとなる二人は、「これになら自分にも作れる」という同じ動機から歌作に入った。そこには「アララギ」の写実主義と「明星」の浪漫主義といった違いはいささかもない。(略)子規の「柿の実の…」が率直な感激、鉄幹の「春浅き…」はありのままの描写、それぞれの主張とは逆の特徴を歌が示している点も興味深い。

表現上の手法や何を詠うかという信条が大切なものとして歌人ひとりひとりにあるのだけれども、それを超えて心を鷲掴みにされてしまうことは、このように当たり前に起こりうるのだと、霧が晴れるような気持ちになった。明確な信条や方法論はもちろん必要だけれども、前に進む原動力として、また他者に向き合う時の心構えとして、この話は大事に胸にしまっておこうと思う。(方法論を定めかねている自分を甘やかす方向では使わない。)

○茂吉の生涯をパネルで眺めると、あまりに普通で少し戸惑う。とりたてて奇抜な信条を持って生きたわけではなく、普通に(ただし誰よりも全力で)仕事をし、歌作をしただけのように見える。
○茂吉の「対象の中にはいりこんでそれと一つになる」という実相観入の方法は、私たちにとってわかりやすいもののように感じる。私たちは、自分と全く関係のない他の事物に向き合いながら、向き合ったものに何らかの意味を付与せずにはいられない。自分と関係のないはずのものを、自分のその場の「事情」に引き込みすぎてしまいがちだ。そういう今日的な批評眼のありかたにちかいものを茂吉の歌はときどき(あくまでときどき)持っていて、茂吉の歌に親しみと同時に自分自身の欠点を見てしまうような居心地の悪さを感じることがある気がする。
○新聞に投稿を始めたのが23歳、第一歌集『赤光』の刊行が31歳の時というのは思いのほかゆっくりとしたスタートで驚いた。
○三等客車の旅を快適にする「旅行枕」の図、いただきものの食べ物を「想像するだけでよだれが落ちそうなので、このあたりでやめておきます」といった礼状など、茂吉の手紙は面白いものばかりだ。
永井ふさ子の美しさに驚いた。

手書きの原稿・書簡などの数々、カンカン帽や眼鏡などの遺品、といった縁の品を目の当たりにすると、やはりどうしてもその人を好きになってしまう。出向いて本当に良かった。
午前中は大雨だったのに会場はかなり混雑。見終わったころには雨は止んでいました。

体ぢゆうが空になりしごと楽にして途中靴墨とマッチとを買ふ(『遍歴』)
上ノ山の町朝くれば銃に打たれし白き兎はつるされてあり(『白桃』)
しづかなる峠をのぼり来しときに月のひかりは八谷をてらす(『ともしび』)
この国の空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね(『小園』)
友と三人語らひにけり湖の水と小川の水がしづかに合ふを(『暁紅』)